私たちの生活は、コミュニケーションによって成り立っています。そのコミュニケーションにおいて、必要不可欠なもの――それは、言葉です。言葉は、専門家によれば、言語と非言語に分けられます。非言語とは、例えば、身振り手振りや身体的な接触、あるいは、ある人の話し方や声色などです。興味深いのは、コミュニケーションにおける言語と非言語の重要性です。実は、言語よりも非言語の方にそれはある、というのです。沈黙は、ある意味で、非言語に属するのでしょうか。時として、それは、大変雄弁になります。
「人の口は、心からあふれ出ることを語る」。(ルカ6・45)また心は、そこにおいて神の言葉を聴く場でもあります(良心)。自分と神だけが出会う聖所であり、そこに沈黙の言葉はささやきかけます。
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことができる」。(申命記 30・14)しかし、時に神は、自分の思いとは真逆の思いを伝えてきます。預言者エレミヤも、そのことを体験した一人です。
「主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです」。
(エレミヤ20・9)
沈黙はまた、祈りの場。イエスは、しばしば一人になって祈ります。彼は、また、この世を去る時に私たちのために取り成しの祈りを捧げます――「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」。(ヨハネ17・21)
それに対して、私たちも祈ります――「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」。(詩編 62・2)