今日も朝の太陽は昇り、やがて陽は暮れて、人々は家路に着くでしょう。日常の営みは繰り返され、月日は過ぎてゆきます。私はふと、自分の心に問いかけます。〈日々とは単なる繰り返しなのであろうか?〉と。
思えば以前、高齢者の介護職をしていた私が直面していたことは〈自分の限界〉についてでした。介護をする上で真心は大切ですが、施設内の業務を限られた人手で円滑に行うためには、真心以上に効率を重視せざるを得ない現実がありました。
執筆に専念する現在は、自宅で知的障がいをもつ息子を介助する日々です。息子と共に歩む上で直面する現実は、たとえば食事介助の場面。息子は落ち着かない精神状態の時があります。普段はかわいいと思えても、キョロキョロしたり、「うわー」と駄々をこねて叫んだりすると、思わず私も不穏になり、「コラッ!」と叱ってしまうことがあります。このようにいらいらしてしまう時など、私は自分自身の限界を目の当たりにするのです。
「今日という修練の場を如何に生きるか?」というヒントを求めて、ある晩、恩師のカトリック哲学者・小野寺功先生に電話をすると、次のような助言を下さいました。
「亡き妻が晩年に入院して以来、私は任せきりであった家の掃除や皿洗いをするようになりました。その時、不慣れな家事をする私の一挙手一投足が、キリストの姿を彫刻刀で彫るような感覚になったのです。動作というものは呼吸も大事で、息を吸って吐くことには〈沈黙と間〉が生まれます」
電話の後、私は考えました。先生のような極意はまだ掴めていないものの、今日という与えられた場が豊かに充実するように、心に〈沈黙と間〉をもって日常を見つめ、生きてみよう――と。