1966年、遠藤周作の「沈黙」が出版されました。丁度私が受洗した年で、発売と同時に本を買って一気に読み終えた記憶があります。その後私は美術教育者から画家になり、教会の要請で殉教地を取材して歴史画を描く間に、度々「沈黙」を読み返しました。長崎県外海に建つ遠藤周作記念館では、展示と見事な夕陽に染まる海を見て、まさにここが舞台と納得しました。「神の沈黙」とは重いテーマですが、考えてみると当たり前の現実でもあるのです。
信仰を持って祈る事で神様からの無言のメッセージを私たちは日々受け取っています。
私は殉教画だけは昼間には描きません。夜、家事を終え家族もそれぞれの部屋に下がって静寂が訪れると、家庭祭壇に向かい「描かせて下さい」と祈ります。アトリエに行きイーゼルを前にすると、何故か不思議に筆が進み、集中して制作出来ます。資料を読み込み取材を重ね、人物のポーズにこだわってデッサンを積み、構図を決める迄は自己責任です。でも本当に殉教の場に立ったわけではありませんから、神様が描かせてくださっている、イメージが降ってきた、と想像力が賜物であることを確信する瞬間があります。「鎌倉のキリシタン」から始めた、40年間の制作過程で私は何度も不思議な体験をしました。
ジャンヌ・ダルクの生涯が裁判劇として語られる芝居、ジャン・アヌイ作の「ひばり」にはこんなセリフがあります。「神様、貴方が黙っていらっしゃる時、貴方は一番信頼して下さっているのですね。そう、お引き受けします。」と言って運命を受け入れ、火あぶりの刑につくエピローグです。
家族や友人との間でも、沈黙は最高の信頼の証と納得しています。