もう亡くなったが、舅は無口な人だった。舅は一人息子で、彼の母も殆ど口をきかない人だったそうだから、無駄な話をしない暮らしが身体に染み込んでいたのかもしれない。会話を楽しむ賑やかな家庭も良いものだし、それぞれが静かに暮らす家庭もあってよいと思う。
遠藤周作の小説「沈黙」は、キリシタン禁制時代の物語であり、ついに棄教するポルトガル人司祭ロドリゴの苦悩が描かれている。ロドリゴは信仰篤く、誠実な司祭だったが、自分が棄教するまで、いわば自分の身代わりに拷問にかけられ続ける百姓たちを見て、耐えられず踏み絵を踏む。
神への信仰のために迫害されている者たちを、なぜ神は助けないのか。なぜ、ただ沈黙しているのか。主人公だけでなく、読者もそう思う、この時の沈黙は恐ろしい。空が灰色に張り詰め、冷酷な重石となって生き物を押し潰すような印象すらある。だがロドリゴは声を聴く。
『踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ』。
神は沈黙を破ったのだろうか。いや、その声は、心身ともに極限状態にあったロドリゴの信仰と心の望みが生み出した声だったのではないだろうか。だがそれは、弱者のために来て、弱者と共に苦しむキリストを見出したことでもあった。それは神の沈黙の中でこそ見出されたのだった。
この小説の題名が「声」ではなくて「沈黙」であるのを、興味深く思う。社会の中で、時に理不尽な目に会い、孤独を感じた時は、寄り添って下さる存在を思い出したい。神の沈黙は、本当は恐ろしいものではなかったのだから。
沈黙には意味がある。家庭の中の小さな沈黙にもきっと。