▲をクリックすると音声で聞こえます。

沈黙

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 以前にお坊さんと話していたとき、お坊さんの口から、「言葉を使って仕事をするなら、少なくとも一定の期間、沈黙の修行をしなければならないでしょう」という言葉が出た。この言葉を聞いたとき、わたしは、「キリスト教でも仏教でも、人間が考えることは同じなんだな」と思って感動した。キリスト教でも、言葉を話す前には、まず話すための言葉を神から受け取るための時間、沈黙のうちに祈る時間をとることが勧められる。語るべき言葉を持たないまま口を開いても、相手の心に届いて相手を慰める言葉、相手の心に響いて相手を力づける言葉を語ることはできないからだ。

 沈黙のうちに神と向かい合い、自分と向かい合っていると、言葉のもとになるものが心の底から湧き上がってくる。それを、言葉以前の言葉と呼んでもいいかもしれない。

 神からのメッセージは、言葉以前の言葉、まだ言葉にならない言葉としてわたしたちの心に届くのだ。そのメッセージを受け取って人間の言葉で表現し、人々に伝えてゆくのがわたしたち神父の役割だと言っていいだろう。神からのメッセージを受け取らないまま、自分の頭の中にある言葉の在庫を並べ立てても、決して相手の心に届く言葉、相手の心に響く言葉にはならない。神からのメッセージを受けて新たに生まれた言葉。それだけが、相手の心に届き、相手の心に響くのだ。

 何もせずに祈る時間は、一見無駄に見えるかもしれない。だが、その時間が豊かであればあるほど、わたしたちの語る言葉は豊かなものとなり、日々の奉仕も豊かなものとなってゆくのだ。語るべき言葉は沈黙の中で生まれる。忙しい毎日の中でこそ、このことを深く肝に命じたい。