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沈黙

松浦 信行 神父

今日の心の糧イメージ

 私は、元修道者だったのですが、その修道院に入る為の修行(修練と言います)の時、とても面白い行がありました。

 毎週木曜日の午後、夕方4時に聖堂に集まり、先唱者に続き、あらんばかりの大声で答えがいつも同じ言葉の「連願」という祈りを唱えるのです。

 例えば、先唱者が「聖マリア」と唱えると、皆で、「我らのために祈り給え」と大声で応えるのです。聖ヨゼフーー我らのために祈り給え。聖ペトローー我らのために祈り給え。こうして10分ほど経つと祈りも終わり、それから皆で沈黙の時を味わうのです。

 日本人の神父が、この祈り方を指導して下さっていたのですが、今から考えると、彼が好きな座禅の祈りからヒントを得たものかもしれません。大きな声は、私たち人間の生き生きとした活動のしるし、そしてその活動を止めたとき、人間の活動の本質がどのようなものであったかを静かに見ていく作業、沈黙の祈りがあるわけです。

 不思議と、この落差のある祈り方をすると、沈黙の時、いつも以上に心が集中します。いち早く心が落ち着いてきます。そして活動ではなくその人の存在そのものが心に浮かんでくるわけです。

 同じ事を、私が初めて司祭になって赴任した教会の主任神父が語ってくれました。彼は落語の世界から、良い話し手は、沈黙の間を有効に使っていると私に注意してくれました。

 話でも文章でも、語っている言葉、見える言葉に私たちは注意しがちだが、実は文章ならば行間の中に、話ならば間の中に、大切なものが潜んでいると、彼は口癖のように言うのです。

 沈黙は、沈黙していないときの中にある大切なものを指し示し、新たな意味を浮かび上がらせてくれます。