最近、聖書を読んでいて心惹かれるのは、イエス様が「一人山に行き、祈っていた」という箇所です。度々出てきます。イエス様は宣教の日々、食事の時間もなく大勢の病人を癒し、死者も生き返らせて神の愛を示し、また敵対する人々の誤解や排斥に苦しまれました。だから祈りの中で、天の御父の愛の源泉に抱かれて憩い、新しい力を得ておられたのでしょう。
ゲッセマネの園では血の汗を流しながら祈りの中で、贖い主として十字架刑を受けいれて最後まで御父のみ旨に従う決意をされました。
マリア様も祈りの人でした。突然「あなたは救い主の母となる」と天使に告げられた時、彼女は祈っていました。驚き、戸惑いながらも、その招きを受け入れて、祈りながら神のみ旨を問い続け、使命を果たそうと努めます。
イエス様が「救い主」として人々に賞賛されるのを母として喜びながらも高ぶらず、神との親密な祈りの中で十字架の下まで付き添ってイエス様を支えました。マリア様の沈黙の祈りに神が愛の力を注ぎ、応えて下さっていることを示している気がします。
私は長女をカトリックの幼稚園に入れたのが縁でキリストの教えに触れ、神の愛と聖霊のお働きに魅せられて一家で洗礼を受け、未熟ながら心の座標軸が人から神へと大転換しました。
以来、日々の何気ない暮らしの中で、神の慈しみを感じて喜び、導かれてきました。
私たちは一人一人神に愛され、その人だけへの特別な恵みを頂いているのです。このことを知ると、互いに感謝し、喜び合って生きることができるのではないでしょうか。
この大きな恵みは言葉では伝えられません。マリア様に倣い、神のお働きを信じて、もっと黙って祈らなければ・・・と思います。