「・・日ごとの糧を今日もお与えください。」マタイの福音書によるとイエス様が弟子たちに祈りの言葉をお教えになった時、「あなた方の父は、願う前からあなた方に必要なものをご存知なのだ。だからこう祈りなさい。」と仰って、「天の父よ」と呼びかけ、願い事を挙げる中にこの言葉をお入れになりました。(参 6・8~9)
生命を保つ為に先ず必要な食糧、人間に限らず生きとし生ける全ての生命にとって、日ごと必ず与えられるなら何と幸せな事でしょう。
ルカによる福音書では、イエス様はこの「主の祈り」を教えてくださった後、具体的に、夜中に困ってパンを貰いに友達が来た場合、始めは面倒くさいと思っても必死に頼まれればパンをあげるという、日常の自然な人情を例に挙げ「求めなさい。そうすればあたえられる。探しなさい。そうすれば見つかる。・・・」という有名なみ言葉『門を叩け、さらば開かれん』に続く説教をなさいました。(参 11・5~9)
「門を叩け」は私が小学生当時は文語体で、まだ深く意味も解らないのに毎朝黒板に書かれる「今日の聖句」を暗唱した頃から何か大きな希望を感じる言葉として私の大好きなみ言葉です。今日まで、人生で困難に出会ったときに何度も支えられ、行く手が開かれたものです。
日ごとの糧も座り込んでただ祈るのではなく、自分から糧を得られるよう働き、何処で得られるか捜すという努力が必要です。
念のため糧という言葉を国語辞典で調べると、食糧の他に支え養う物、活動のもととなる物と書かれていて、使用例として「心の糧を得る」とありました。
頂いた生命を大切に懸命に生きる人間をご覧になって、衣食住、健康、仕事、愛情、それぞれに必要な恵みをくださる方こそが父なる神なのです。