「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」
これは、キリストを信じる人たちが日々唱える『主の祈り』の一節です。『主の祈り』とは、イエスさまご自身が弟子たちに教えた祈りとされています。そして、ここで「糧」と訳されている言葉は、西洋の多くの言葉では、「パン」という言葉になっています。
この祈りには、私たちが生きていくうえで欠かすことのできない毎日のパンを、神さまが今日、与えてくださるように、という切実な願いが込められています。特に日々のパンに事欠く貧しい人たちにとっては、悲痛な叫びでもあるのだと思います。
ところが、日々の糧は「パン」だけにとどまりません。聖書にある有名な言葉に、次のような言葉があります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4・4)
これは、イエスさまが悪魔の誘惑を受けられた時に答えられた聖書の*言葉ですが、パンだけでなく、神さまの言葉によって、私たちは真に生きる者となることがここに示されています。 *(申命記8・3)
日々の「パン」によって、私たちは命をつないで生きていくことができます。しかしながら、さらに「神さまの言葉」を生きることを通して、神の子として、より生き生きと生きることができるのです。
言い方を変えれば、生物学的な「ヒト」として生きるためにはパンが不可欠ですが、社会的な「人間」として生きるためには、神さまの言葉が不可欠だ、と理解できるのです。
こう考えてみると、私たちに必要な「糧」は、身体の糧である日々のパンと、心の糧である神さまの言葉、ということになります。「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの言葉も、日々の大切な命の「糧」となっていくのです。