「主の祈り」には、「わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください」という一文がある。私も幼い頃から、主の祈りは唱えていたが、子どもというのは無邪気なもので、この部分を切実な願いとして感じたことはなかった。
だが成長すると共に、広い世界を知るようになり、生きるのに必要な物が得られないでいる人々が多くいることが理解出来るようになった。そして糧という言葉が食糧だけでなく、社会の中で生きるのに必要な物、住居や仕事も意味するのだと思うようになり、年を重ねるうちに、魂を持つ者として、その日生きるために必要な魂の食べ物のことも意味しているのではないか、とも思うようになった。
90年代、ソマリアからエチオピアに逃れてきた難民キャンプでのエピソードを思い出す。飢えた難民たちに、支援の人々が食糧の援助をし、まず経口補水液を配ったが、どうしても飲まない2歳半くらいの女の子がいた。生存の瀬戸際におり、何より水を必要としているはずなのに、何度渡されても、コップを投げ捨てる。その子は家族を失い、つらい体験を重ねて、ひどく傷ついていたのである。
日本語であったが、ユニセフ親善大使であった黒柳徹子さんが優しく話しかけ、いたわりながらコップを渡してみると、女の子は黒柳さんの顔をじっと見つめ、水を飲んだそうである。その子は何よりも優しい声と愛情を必要としていたのだろう。魂を潤す水が欲しかったのだ。
今日いちにちの、私たちの身体が生きられる糧と、魂を潤す糧をお与えください、と祈りたい。そしてそれを人々と分かち合うことができますように。愛されることで満たされ、愛することであふれるよう、私たちが生きていけますように。