私たちは、日々「主の祈り」を唱え、「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っています。「糧」とは、衣食住、そして、心豊かに生きるための力、私たちの生活や成長を支えてくれることを意味していると思います。
しかし、今日食べることに事欠く人にとっては、今日のパン、瀕死の病気の人にとっては治療や薬が必須であると思います。そんな人たちのことを思うと、"心豊かに"とは贅沢にさえ感じてしまいます。
日本でも、厚生労働省の調査によると、子どもの7人に1人が貧困状態にあり、「子どもの貧困」という問題が大きく取り上げられるようになりました。一見豊かと思われる日本で、大勢の子どもたちが「貧困」である現状には大きなショックを受けます。
こういう現実を突き付けられ、私が思い出すのは、かつて関わった小学生の男の子のことです。彼は、母親からネグレクトされ、ろくに食事も与えられず、入浴もさせてもらえず、ほったらかしにされて保護され、施設に入所していました。施設では、彼の生活は保障され、空腹になることもなく、何よりも周りの人たちから大切にされるようになり、彼も心を開くようになっていました。誰もが、ひどい母親から離れて良かったと思っていました。しかし、ある学校行事にふらっと立ち寄った母親を見つけた彼の顔の輝き、普段は決して見せないような笑顔や大粒の涙を見た時、私たちは思い違いをしてきたことがわかりました。
愛されずに育った子どもは、正常に育たないと聞きますが、子どもにとって特別なたった一人の人に愛される、まず自分の存在を認め、心から大切に思ってくれる人がいると信じられること、それこそが、何よりの糧だと、私は実感したのです。