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授かったもの

林 尚志 神父

今日の心の糧イメージ

 だいぶ前の話です。福祉施設で長年働かれていた方がお母さんを亡くされた時、友人に「勤務で忙しく、母には何も出来なかった」と声を上げて泣かれたのです。友人は「そんなことないよ、精一杯尽くして上げていたよ」と慰めていました。どうにもならない哀しい時でした。

 少し経ち、雰囲気を変えようと、「お母さんの言葉、一言でも覚えている?私は親不孝息子で母親の言葉を殆ど憶えていない」と尋ねました。その方はぽつりと、「人の親切は韮の葉に包んでも、有難く頂きなさい」。そして静かな時が流れました。

 韮の葉は細くて微かなものしか包めません。どんな細やかな親切でも有難く頂きなさいと、子どもの頃お母さんに教わったそうです。

 話変わって最近の事です。以前から登りたいと思っていた郊外の山に、思い立って独り午後から出かけました。自分自身に「様子見」にと言い聞かせ、ネックライトをしてですから、下心ありでした。24年前に登ったことのある結構急な山道ですが、すっかり様子が変わっていました。いや、私の身体の様子です。

 途中で出会った親子、お父さんと娘さんが、すれ違った半時間後追いかけて来られました。

 歩みの遅い私に「今日は暗くなるから頂上は又にして、一緒に下りましょう」と懸命に、勧めるというよりお願いされたのです。我儘な私は、「大丈夫です」と振り切って夕暮れの山頂に立ちました。それはそれで喜びでしたが、暗くなり、ライトの光だけが頼りの帰路は大変なもので、危険な目にも遭いました。

 何とか登山口に辿り着きほっとした時、矢張り「一緒に降りましょう」との心からの親切を「授かりもの」と、韮の葉に包んで受ける事が、独り山頂に立つことより大切だったと分かったのです。