病人の看病――おそらく、多くの人が、経験されたことがあるかと思います。病人の枕元にいる。ただそれだけなのに、独特の疲れを感じます。(なぜだろう)。ふと気づいたら、病人と自分の息遣いが、一つになっていました。誰かと共に生きる――それは、きっとこういうことなのではないか、とそう思います。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)―と聖書は語ります。神の命の息が注がれている限り、私たちは生きる。この息は、天地創造の時、水の面を動いていたあの神の霊であり、まったく自由に吹き抜ける風です。その風に自分を任せる時、私たちは、きっと神と共に生きるのでしょう。
人間同士の場合は、どうでしょうか。息が合う人、阿吽の呼吸で分かり合える人――そのような人との出会いは、仕合せです。しかし、かりにあったとしても、いつまでもそれが続くといった保証はありません。それでも、お互いの息遣いが一つとなった、その体験が、今の自分を生かしてくれます。
「霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4・5)――聖パウロの言葉です。これは大切な励ましです。
イエスは、この世から去る時、弟子たちにこう語られました――「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」。(ヨハネ14・16~17)
真理の霊――それは、神の慈しみ、神の慰め、そして神の誠の霊に他なりません。
最後に詩編の言葉をお届けします。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。(133・1)