五島の生家のことは、まるでおとぎ話のように何度も書いているが、やはり「ともに生きる」というテーマでは、生家の父母を中心にした人間関係を書かずにはいられない。
我家は7人家族であったが、7人で御飯を食べた覚えはない。
いつも、10人以上で食卓を囲んでいた。従って、茶ぶ台を3台も並べていた。丸い茶ぶ台、四角い茶ぶ台、不揃いで、それでも座ぶとんだけは人数分出して肩寄せ合って座った。
父の口癖は「世の中は広かとに、こげんしてここに一緒に御飯ば食べるとは縁じゃけんね。縁ば大事に思わんばね」。
母は「さあ、食べなはれ、飲みなはれ、腹が破るっごと」と陽気に手を打たんばかりにして、お客さんにすすめた。
戦後まもなくの頃、白い御飯を求めて我家へやって来る人たちも多くいた。
時々は米びつの中がからになり、裏口からそっと抜け出して米を借りて来る母を何回か目撃した覚えがある。他人に借りてまで、我家へたどり着いた以上は、満腹にして帰さずにはおられない父母であった。
「そげんまでして他人の世話ばせんばいけんとか」と私は心の中で思っていた。
「うちんごちゃる貧乏世帯ば頼らんばいけんくらい困っとるもんがおったら助けんばいけんとよ」と父母は口を揃えていっていた。
いま、刑務所から出てきたばかりの人でも縁じゃけんといって泊めていた。
無防備な我家ではあったが、一度も怖い目にあったことはない。
きっと神さまが守ってくださっていたのだと、今、感謝をこめて思う。