私が「慎ましく」という言葉から第一に思い起こす人は、聖ヨセフです。教皇フランシスコは、昨年から今年の12月8日までの1年を「ヨセフ年」と宣言されました。
教皇様は「新型コロナウイルスのパンデミックの中、聖ヨセフが、日々の困難を耐え忍び希望を与えているが決して目立つことのない、『普通の人々』の大切さを示している」と言われます。
ヨセフは、イエスの人間の父として、神に選ばれ、神の心を大切に生き抜いた人です。人類の「救いの歴史」、イエスの生涯においても大きな役割を担った人ですが、決して脚光を浴びることもなく、聖書には一言も彼の言葉は記されていません。
しかし、イエスは、ナザレでの日常生活において、養父であるヨセフを通して、御父なる神のいつくしみを実感されたに違いありません。
聖ヨセフは、家庭の責任者として、マリアとイエスに仕え、彼らの生活を支えるために働き、汗を流し、日々の困難を耐え、慎ましく誠実に生きた「普通の人」でした。
しかし、この家庭生活こそがイエスの宣教活動と十字架の死に至る道を支え、彼のたとえ話や人々とのかかわり方に見られる日常性は、その中で培ったものと言えると思います。例えば、決して裕福とは言えない生活の中で、イエスは、日常的に訪れる近所の人々とパンを分かち合うヨセフの姿を通して、4福音書に描かれる「パンの奇跡」のような経験を重ねられたのではないでしょうか。
聖書は、十分に聖ヨセフの慎ましい人間性について語ってくれません。しかし、イエスの生き方、人々に示された憐みの心の中に、聖ヨセフの日常を愛し、慎ましく生きた人間性が反映されているように、私は思うのです。