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いつくしみ

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 聖書に記されている神は、唯一、全知全能の神なので、何かと欠けている私たち人間には取りつく島がないように感じられます。

 ところが神の私達への寵愛ぶり、慈しみぶりは、とても信じがたいほどなのです。それゆえ、神様は私達人類の歴史的な理解度の発展に合わせて、ご自分を少しずつお示しになったのだそうです。

 ところで今ここに、カトリック教会のフランシスコ教皇の2015年の大勅書があります。題して「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」というものです。この勅書は2015年の12月から、翌年11月の「王であるキリスト」の祝日までを「いつくしみの特別聖年」と定めるために公布されました。

 その冒頭の一行半を引用しますと、「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします」というものです。

 この一言だけで私は深い感銘を覚え、出来ることならこの勅書の全文を引用したい気持ちになりました。実際には勅書が長いのでそれは出来ないのですが、せめてもう一行ご紹介したいと思います。

 「いつくしみ、それは神がそれゆえにわたしたちに会いに来られる、究極の最高の行為です」。何と深い同感でしょう。

 この一言は旧約聖書と新約聖書の示す中心点を、ズバリと指しているように思うのです。旧約聖書にある「神よ、あなたは慈しみ深く、真実な方」(知恵の書 15・1)、また新約聖書では、イエスの仰る「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」と。(ルカ 6・36)

 こうして私達の父である神様は、私達を愛しい者として、ご自分のはらわたが揺れ動くほどの憐れみをもって慈しんで下さるというのです。