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いつくしみ

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 昔、教会に行ってミサに与かっていると、よく司祭のお祈りの中で唱えられていたのが、「主よ、私たちを憐れみ給え」という言葉でした。

 確かに神さまから見れば、人間は惨めで、哀れな存在かもしれませんから、これは正しい祈り方なのでしょう。しかし、現在のローマ教皇フランシスコは、「憐れみ」という言葉をあまりお使いにならないと感じています。

 代わりによくお使いになるのが、神の「慈しみ」という言葉です。これには重要な違いがあると思います。

 「いつくしみ」という言葉には、少なくとも二つの意味と感情が含まれています。一つは尊敬という意味感情です。あなたは何て尊い存在なのだろうという意識です。もう一つはあなたは何て可愛いいのだろうという寵愛の感情です。

 

 この両者が含まれているから、神が私たちを慈しんでおられるというときには、神さまが私たちを大切な子どもとして可愛がっておられるという事実を表しているのです。

 私が実際に慈しみの想いを抱いたのは、30歳の頃、広島のある中学校で教員をしたときでした。校長先生の指示を受け、中学1年生3クラス、120名の生徒の教育と訓育を担当することになりました。色々な生徒がいましたが、この子どもたちの教育と訓育を任せられたので、校長の指導どおり、生徒の傍にいつも居て、授業は厳しく教え、掃除はきちんと監督し、休憩や部活動などでは一緒によく遊びました。そのためか、生徒たちも先生の私を好きになってくれたようでした。

 そうした子どもたちが毎朝、正門を通って校舎に向ってくる姿を見るたびに慈しみの情が湧き上がるのを強く感じたものでした。