今の私を支える多くの出会いの中でも忘れがたいことがある。
26歳から4年間、演出家、蜷川幸雄氏との出会いだ。当時、私はデザイナーの秘書として働いていた。ある日、蜷川スタジオの試験があることを知り、入団試験を受けることにした。試験の課題は、三島由紀夫の『近代能楽集』の「道成寺」。当時の26歳と言ったら遅い出発なので作戦を立てた。紫のアジアの民族衣装に、ピンクの花にリリアンの束を付け腰まで長い耳飾りを作り、足袋は赤のビロードに色とりどりの花を刺繍した。その衣装の上にコートを羽織って試験場に出かけた。思いは叶って合格した。
帝国劇場の舞台に群衆の一人として舞台の稽古に入った。主役の方々、群衆の一人である私。蜷川氏は群衆として動く集団を嫌った。群衆の一人ひとりに、台本にもない自分なりの役のレポートを書いてくるように命じた。レポートを出し、演出の助手が読み、それぞれの立ち位置や衣装が決まっていった。蜷川氏は群衆を、共同体として考えていた。灰皿が飛び、「バカヤロウ。みんなが主役なんだ。スポットが当たっているかどうかの違いだけだ」と怒鳴った。だが、私は演技が下手だった。舞台に出ていた一人が「堀さんは下手だけど、どうなるのでしょうね」と蜷川氏に話しかけていた。「あいつにはあいつにしか出来ない役がある」と言った。そして、何日かして、蜷川氏は、「百万人の敵がいても、私一人で行くという生き方をしろ」と私に言った。
蜷川氏は群衆という個性のない集団を嫌った。何よりも共同体作りをした。蜷川氏の凄さは共同体の中に、生まれも育ちも性格も違う人間を、一切の妥協なく観客を魅了するいつくしみの集団に変容させることだった。