「麻由ちゃんが全身で一所懸命やっている姿を、神様は愛おしくみておられると思うよ」
私のトークコンサートに初めてきてくれた友人が、こんな感想を話しました。
仕事なので一所懸命なのは当然ですが、私は「愛おしい」との言葉に驚きました。
講演から授業、コンサートまで、私は人前での一発勝負が大変苦手で、毎回反省点が山ほど出ます。終了後は常に厳しい評価を下し、「なぜあそこで失敗した?」と自問ばかりしています。神様も同じだと思っていたため、友人の「愛おしい」発言に戸惑ってしまったのです。
そんなある日、日本語の「かわいい」が世界的な言葉になっているとのニュースに触れて膝を打ちました。神様は厳しい方だけれど、その分私たちを「かわいい」という目でも見ておられる、だから友人は「愛おしい」という言葉を使ったのかもしれないと。
「かわいい」は、未成熟なものに使う英語「キュート」とも、「愛らしい」に近いフランス語「エマーブル」とも違う、独特なニュアンスを持っています。小さく弱いものにも使いますが、「自分がかわいい」、「可愛い子には旅をさせよ」など最大の愛情の対象の比喩にも使います。
ただ私は、この言葉に最も広く、強く込められている感覚は「純粋」ではないかと思っています。
動物、子ども、おもちゃやファッション。かわいい相手と、その存在を愛する気持ちには必ず、脇目も振らない一心さがある気がします。そのひたむきさに心を打たれると、こちらもひたむきに「かわいい」と思うのではないかと。
神様は厳しい一面を持ちながらも、私たちが純粋であれば「かわいいぞ」と目を細められるのかもしれません。それが神様の慈しみのようにも思えるのです。