目まぐるしく移り変わっていく世相のただ中にあり、様々な出来事に翻弄されながら日々を過ごしている私にとって、「心のなごみ」となるひと時は、「変わらない何か」に触れている時ではないか、と思っています。
それは、大自然に囲まれた南の島で過ごすひと時であったり、唱えなれた言葉でささげる祈りのひと時であったり、一日を終えて寝床につくときであったりします。
たえず移り変わる毎日であるからこそ、「変わらない何か」に触れるひと時が私に「心のなごみ」をもたらすのです。
ところで、イエス様にとっての「心のなごみ」とは何なのだろうか、と考えました。
それは、世間に受け入れられない人たちと共に飲み食いするひと時であったかもしれません。また、心から信頼できる友人を訪問するひと時だったかもしれません。そして何よりも、人里離れたところで「父」と呼ばれた神さまとの語らいのひと時も「心のなごみ」となったと思われます。
聖書は伝えています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1・35)
「良い知らせ」をカファルナウムという街だけでなく、ガリラヤ地方の隅々にまで伝えるという新しい使命に気づいたイエス様は、その活動の前に、父である神に祈り、神との語らいの内にあったのです。これから先の不安や困難も想定されたことでしょう。それでも、祈りの内に、「心のなごみ」を見出し、新しい使命へと突き進まれたのです。
生活の中で、「祈り」を「心のなごみ」として生きていければ、素晴らしいことだと私は思います。単なるお願い事だけでなく、神の御心に自分の心を合わせることができると、もっと素晴らしいことだと思います。