多くの方々もきっとそうなのではないか、と勝手に思っているのだが、私も大げさな美談というものが苦手である。気高い行いをする人は確かにおられるし、尊敬の念も湧くが、お手本としてまつり上げられた途端、何か不純な意図を感じて、急に気持ちが離れてしまうのである。
私が好きなのは、人の善意や礼儀が感じられる小さな話だ。聞けば、ほのぼのとして心がなごむ。先日も、そんな話の一つを聞いた。
或る小学生の娘さんが、お母さんと一緒に駅までお父さんを迎えに行った。もう日が落ちて暗くなり、駅の改札から、帰宅する人々が大勢出て来ている。その中に、父の顔を見つけた娘さんが「お父さーん!』と叫ぶと、背中を向けて反対方向に歩いていた男性たちが一斉に振り返ったそうである。そして自分の子どもでないことに気づいて、皆照れくさそうな顔をしたとのことだった。
それだけの話なのだが、心がなごんだ。皆、家庭に帰ればいいお父さんで、子どもを可愛がっているのだ、とほのぼのした。これが「『先生ー!』と呼んだら、振り返った人が大勢いた」という話だったらどうだろう。ほのぼのではなく、「日本には、先生と呼ばれる人が様々な職業において多すぎるほどいるものだ」という文化論になってしまう。お父さんだからよいのだ。
私たちは、人間は善き心を持っていると信じたい。地上における「善きこと」は、人々の普通の生活の中にあり、日々を輝かせているのだと思いたい。だから、ごく当たり前の姿で、善きものが私たちの暮らしの中にいるのを見つけた時には、嬉しく心なごむのである。そして、心なごんだことで、自分もまた善き心を持っているらしいと確かめて、人はもう一度幸福な気持ちになるのである。