私は時々、受刑者の人が読む広報誌に原稿を書いています。塀の中の日々をどのような思いで過ごしているかを想像するのは難しいですが、私はそこに掲載される「受刑者の手記」を読み、その心の声に耳を澄ませてから手紙を綴るような気持ちで、ペンを取ります。
手記には、刑務所に入る前には気づかなかった母や父の愛情・友の優しさ、被害者とその家族への謝罪や深い後悔の念、そして自分に与えられている命への感謝などが述べられています。罪を償う日常を懸命に生きる中で目が開かれてゆく心の変化が、誌面から伝わります。
受刑者の罪の背後には、時を遡ると、成育過程で親の愛情を得られず心が満たされなかったり、傷を負ったりした経験など個人的な出来事が起因していることを感じる時があります。法律は必要不可欠ですが、事件の表面のみではなく、過去を探ることが犯罪を、そして被害者を減らす鍵になるかもしれません。
先日、教会へと歩く道に偶然、護送車が停まっていました。教会の売店で本を買い、小さな巻物を頂くと、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が世に来たのは、正しい人ではなく、罪人を招くために来たのである」との御言葉がありました。(マタイ9・12 ~13)確かに、聖書の中のイエスは税金を取り立てる仕事をして人々に嫌われた男や、姦淫の罪で群衆から石を投げられそうになった女など、自分の宿業を嘆き哀しむ人々の傍らにそっと佇んでいます。
私はある受刑者の手記を思い出しました。彼は獄中で聖書を読み、慈しみを心に感じ、「暗闇にひとすじの光を見た」と語っています。イエスの深く澄んだまなざしと出逢い、内面の励ましを得た彼は更生を目指し、再び歩み始めたそうです。