「気づき」――改めて考えてみると、戸惑いを覚えます。しかし、その一方で、戸惑いそのものが気づきに含まれているのではないか、とも思います。なぜなら、普段、何気なく受け流していることが、ふと、自分を引き付け、立ち止まらせるからです。その時、私たちは、(?)と思い、その方へと振り向きます。
イエスもまた、時々、振り向く姿を見せています。「イエスは......群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」(ルカ7・9)――イエスの驚きです。しかし、彼が驚くほどの信仰とは、いったいどのような信仰なのでしょうか。それこそ、驚きです。
気づきは、しかし、単なる知的なものではありません。むしろ、それは、自分のいのちそのものが覚醒されるような体験なのではないか、と思います。
ペトロは、十二人の弟子のリーダーでした。最後の晩餐の席で、彼はこうイエスに語ります――「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。(マタイ26・35)単純な心根の彼です。恐らく、その言葉に偽りはなかったでしょう。しかし、彼は、いざ自分のいのちの危険を察すると、「そんな人は知らない」、と三度イエスを否みます。(同26・72と74)イエスは、しかし、そのような彼を問いつめることもなく、静かに振り向いて彼を見つめます。(ルカ22・61)この時のイエスの眼差しは、いったい、どのようなものだったのでしょうか。
真の気づき――それは、自分もまた、イエスから同じ眼差しで見つめられている、その事実との出会いなのではないか、とそう思います。