「他人の何気ない言動を通して、私たちはいろいろなことに気づかされます。今朝、写真を撮る人の目の先を見て、私の目にも美しい朝焼けが飛び込んできました。また、別の場所でのもう一人の人の感動したような表情の目の前には富士山が雄大に立っていました。このように、私たちは、他人を通して神様の働きに気づかせていただくことが度々あります。」
富士山の近くで与った黙想の中の言葉で、いいお話だと感心し、日常の小さな気づきこそが祈りや信仰を真に深める助けになると、私は思いました。
まだ若い頃、いろいろと愚痴を聞いてくれていた人から、「しんどかろうね。そんな小さなことに心を裂いて」と言われたことを思い出します。
その言葉を聞いた時、私は軽く見られたように感じ、その言葉自体に決して感動したわけでも励まされたわけでもありませんでした。しかし、何故かハッとさせられ、私は自分自身に「しんどいのだろうか」と問い続け、しばらく味わってみました。そして、思い巡らして気づいたことは、「私は、自分で自分自身の愚痴を聞きながら、自分に呆れたり、自分を責め立てたりしていたけれど、神様は私の心の痛みやしんどさに共感し、憐みの心で私を見守ってくださっている、『しんどかろうね』との言葉は神様からの共感のメッセージかもしれない」ということでした。すると、心がスーッと解放され、自分の言動を自分で判断し、責め立てる必要がないことにさらに気づかされ、自分が愛おしくさえ感じるようになりました。
私は、このような体験から、日々の気づきを深めていくことは、思いがけない神様の導き、信仰の歩みにつながるように実感しています。