ある日、広島からの帰りの電車の中で、座っていた方がおもむろに立ちあがり、席がなく苦しそうにしていた人に席を譲った姿を見ました。
こんなふうに、困っている人に気づき、配慮できる人たちが、大分減ってきたように感じます。とても残念なことです。
私が若い時には、もっと周りの人のニーズに気が付いていたと思います。
高校生の時の、ある日の出来事を今でもよく覚えています。
数学の先生はフランシスコ会の神父さんでした。
教室に入って祈りをしてから出席簿にサインをしようとしたときに、ペンが無いことに気づかれました。それを見て私は、クラスの一番後ろのところから、けたたましく先生のところへと駆け寄り、自分のペンを渡そうとしました。
先生は、騒がしく走って教室の静寂を破った私に、教室の外に立つようにと命じられました。気が付いたのは良いが、周りに迷惑をかけたという訳です。これは私にとっては大切な思い出の一つです。
イエス様はよく気が付く方でした。エリコに入り、町を通っていかれたときのことです。
徴税人で金持ちの、けれども人々から嫌われていたザアカイという男の人が、イエスの姿を見ようと思いましたが、背が低かった上、自分の罪の意識を強く持っていたので、木に登って、遠くから通りがかるイエスを見ようとしました。この時イエスは、群衆にさえぎられていたのにも関わらず、ザアカイを見落とすことはありませんでした。そして、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい。」と声をかけられました。(ルカ19.5)
イエスの気遣いは、いつも素晴らしい。
それに対して私たちは、目の前で困っている人に対してすら、気づかない、気づけないようになっているのではないでしょうか。
イエスは現在も、ザアカイに向けられた時と同じまなざしで私たちを見ておられます。