真の思いやり、本物の優しさとは、どのようなものなのでしょうか?相手の要求に盲目的に従う事ではない事は、明らかです。何故なら、相手の求める事が、必ずしも相手の幸せに繋がるとは限らないからです。例えば、相手が何らかの飲食物を要求したとしても、それが相手の健康を害する事を知っているなら、それを相手に差し出さない事が、その人に対する優しさだからです。相手の必要性を良く知って、その人の幸せに繋がるように、相手に接する事が、本物の優しさです。イエス様は、出会う人達に、そのように接して下さいました。
イエス様は、当時の社会で疎んじられていた徴税人や罪人達には親切でした。彼らは、自らの人生を見限っていました。社会から疎外されていた彼らは、神様からも見捨てられていると思っていました。そのような彼らにイエス様は、親切に接しつつ、神様が彼らを見捨てていらっしゃらない事を、身をもってお示しになり、再出発の機会をお与えになりました。
他方、「自分達は神様から愛されている」「徴税人や罪人は汚らわしい」と考えていたファリサイ派や律法学者に対して、イエス様は厳しい態度を取られました。彼らは、律法を守る生活を送りながら、ナルシズムに陥っていました。自分達は救われていると確信していた彼らは、イエス様の声に耳を傾ける事も、生き方を改めようともしませんでした。そのような彼らに、イエス様は挑まれました。この人達が、自らの愚かさに気づき、神様に救いを求める事が、この人達の幸せに繋がると考えられたからです。
真の意味で、自分や他人に親切にするとは、イエス様が他人を処遇されたように、自分や他人に接する事ではないでしょうか。