東日本大震災の直後、イタリアのテレビ番組の中で、津波を生き延びた東北の少女が当時の教皇ベネディクト十六世に、「なぜ子どもたちが苦しまなければならないのでしょう」と尋ねた。人々がかたずをのんで見守る中、教皇は、少女をいつくしみ深いまなざしで見つめながら、「わたしも答えを知りません。わたしも悲しみ、あなたたちのために祈っています」と答えた。
「なんだ、教皇なのに答えを知らないのか」という反応もありうるが、わたしはこの答えこそ、少女の問いに対する最高の答えだと思った。教皇は、自分の限界を認めることによって、少女の率直な問いと、その問いに込められた深い悲しみをしっかり受け止めた。自分の限界を認めることで、少女の悲しみを共有し、少女の悲しみに寄り添ったのだ。問いに直接答えてはいないが、教皇は問いの背後にある少女の悲しみにしっかりと応答していた。これ以上の答えはないと言っていいだろう。
理不尽な苦しみを味わい、「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのだ」と問う人に対して、神を信じる人はつい「わたしたちが知らない神のご計画があるのだ」「神は人間の罪深さを罰しているのだ」などと答えてしまいがちだ。
しかし、そんなことを言われても、苦しんでいる本人にとってはなんの慰めにもならないだろう。むしろ、自分が責められているような気がして、余計に苦しむに違いない。そんな問いを発せずにいられないほど苦しんでいる人には、「神がなぜこんなことをゆるすのか、わたしにも分かりません」と言って一緒に涙を流すのが一番よいと思う。大切なのは、問いに答えることより、問いの背後にある相手の悲しみをしっかり受け止めることなのだ。