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思いやり

ドメニコ・ヴィタリ 神父

今日の心の糧イメージ

 「思いやり」という日本語の言葉の意味合いは、他の言語にはないのではないかと思います。「思う」と同時に、「やる」という言葉は与えるという意味を感じますし、単に思うだけではすまない言葉で、何らかの形で行動が求められる言葉ではないでしょうか。

 イエス様の場合は、全くその通りだと思います。自分のことを考えずにほかの人のことを考えて行動をされます。

 十字架にかけられて一番苦しい時、隣の十字架にかけられた罪人の一人がイエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と言いました。(ルカ23・42)

 イエス様は十字架の苦しみを忘れているかのように、「あなたによく言っておく。今日あなたは私と共に楽園にいるであろう」とやさしく答えられました。(同23・43)人を助け、慰め、力づける。決して考えて思うことだけではありません。

 イエス様の「思いやり」は、すべて行動で愛を示しておられるのです。

  私も自分の人生の中で、「思い」をもって行動をした思い出がいくつかあります。

 小学生の時です。ある一人暮らしのおばあさんが、ライトがつかないから助けてほしいと、何故か私を訪ねて来たのです。私は電気のことなど何もわからないくせに、「私が直しに行きます」と、答えました。実際に修理ができたかどうかまでは憶えていないのですが、ただそのおばあさんを助けたかったという思い出が鮮明に残っています。

 また、小神学生になり、アシジに住んでいた時のことです。外で裸足のまま立っている人がいました。その姿を見てどうしても何かしてあげなくてはと強く感じ、部屋からサンダルを取ってきて、垣根の外にいるその人に差し上げました。

 思うこと、考えることだけでは足りません。それを行動に移して助け合いをいたしましょう。それが神様が本当に望まれる「思いやり」ではないでしょうか。