思いやりというと、相手の気持ちを大切にして接する、といったことが思い浮かびます。
ところで、わたしが、フィリピンやベトナム、中国出身の兄弟たちと、修道者・神父を目指す仲間として一緒に住んでいたときに体験させてもらった思いやりは、それまでに感じていたものとは一味違っていました。
彼らは、「大丈夫か」「何か困ったことはないか」と、よく聞いてくれました。そして、挨拶のように頻繁に出てくる言葉は「ちゃんと食べたか」です。正直、親切だけど、はじめはただの挨拶だと思っていました。でも、それはただの社交辞令ではないということが、だんだんわかってきました。
昼時になっても部屋にこもっていたりすると、「今何してる?メシ食おうぜ」と必ず声をかけてくれます。
もしすぐに返事しなければ、「忙しいのだろう」とおもんばかって、そっとしておいてくれる・・・などということはありません。うっかり居眠りなんかして返事し損ねたりすると、そのままドアをバーンと開けて、「大丈夫か?」と心配そうに部屋をのぞき込みます。あわてて「大丈夫!」といって立ち上がります。無遠慮だなとちょっと驚きましたが、同じようなことが何度もあるうちに、見方が変わってきました。
どうやら、この兄弟たちは、声をかけずにはいられないのです。気持ちもですが、いのちが大切なのです。それは、親切とも少し違います。その、思わず「ちょっと独りにしてくれよ」とでも言いたくなるような、「余計なお世話」と言えなくもない関わり方は、とってつけたような理由などない、深い思いやりから来ていたようです。いのちという他者とのつながりを、はっきり感じ取っている人たちの思いやりです。