「あやまちのない人生というやつは味気ないものです、心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです、そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい」(山本周五郎『橋の下』より)。
これは、確かに、人間の現実の姿を現わしている、と思います。
もしそうだとするなら、私たちは、いったいどのように自分自身と、また他の人と関わっていけばいいのでしょうか。
孔子の弟子の一人、子貢がこう尋ねました――「ひとことだけで一生行っていけるということがありましょうか。」それに対して、孔子は、こう応えました――「まあ恕(思いやり)だね。」さらに、彼は、その説明としてこう続けます――「自分の望まないことは、人にしむけないことだ」(『論語』衛霊公第十五より)。
この言葉は、おそらく、多くの人に次の言葉を思い起こさせるでしょう。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」――黄金律です。(マタイ7・12)アクセントの置き方は違いますが、両者の間には、相通ずるものがあります。
「思いやり」とは、言い換えれば、「真心を込める」ということでしょうか。あるいは、相手の立場に自らの身を置く、ということでしょうか。いずれにしても、それは、「愛」から生まれます。「愛」という字には「心」が含まれています。しかもそれは、ど真ん中にあります――それが真心。いい点も悪い点も全部ひっくるめて、まるごと相手を受け容れること、それが、真心であり、思いやりなのではないか、とそう思います。