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思いやり

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 「思いやり」という言葉は日本人特有の言葉だ、とわたしは思います。

 キリスト教が教える愛徳にあたる言葉でしょうが、何とも不思議な言葉だと常々思っています。他人のことを考えるというのは、必ずしも愛にはあたりません。むしろ余計なお節介が入ります。わたしは自分のことを思いやりのある人間とは思っていませんが、他人のことをわが事のように思うと、そこには自然に愛情が流れるのを感じます。

 たとえば、昨年の夏、富士山の麓にある、あるカトリックの女子修道院で10日間、わたし個人の静修をしたことがあります。その間、お世話になるのですから、何かプレゼントを持っていこうと考えました。その時、修道女たちのためにと考えれば、親切な行為かもしれませんが、そうは考えませんでした。ではどう考えて、プレゼントを持参したかというと、わたしが食べたいから、差し上げようと思いました。

 ということは、シスターたちとわたしを同一視していることなのです。別々に分けて考えるのではなく、わが事として思い、プレゼントを差し上げたのです。思いやりとは、こういうことではないでしょうか。

 あなたのことを考えてあげるというのは、相手にとって余計な干渉やお節介になることがあります。自分の考え方を相手に押しつけているような印象を受けるからです。それに対し、思いやりとは、自分が自分に対して何か配慮する気持ちで、他者にすることなので、そこには押しつけがましいところがありません。

 それはあたかも水が高い処から低い処に自然に流れるように、その親切な行為が流れていくのではないでしょうか。