小学2年生のときでした。風邪で何日か学校を休んだ後に登校した日の最初の休み時間。数人で大きな遊動ブランコに乗ることになりました。私も何気なく乗ったら、一人のクラスメイトがこう言ったのです。
「麻由子ちゃんは病気が治ったばかりだから、ゆっくり漕いであげようね」。すると、みんなは彼女の言葉の通り、そっとそっとブランコを漕ぎ始めたのです。
驚いたのは、こう言った友達は、普段私をライバルとして目の敵にしている子だったのです。勉強も生活も掃除も、すべてにおいて私と競争し、のんきな私を出し抜いてばかり。さすがにのんびりした私も彼女とは注意して付き合うようになっていました。
しかし彼女は、ライバルという関係と体のことを明確に切り分け、人間として私を労わってくれたようでした。
学校から帰ってこの出来事を母に話すと、「思いやりがあるのね」 と感心していました。そうか、思いやりって、こういうことなんだ、と、私は母の言葉を聞いて初めて意識したのでした。くしくも「要注意人物」の意外な行動によって。
ただそのとき、実は私もみんなを思いやっていたことにも、後で気が付きました。ソロソロと漕いでもらいながら体の調子を確めると、私は「ありがとう。大丈夫みたいだから思い切り漕いでいいよ」と告げました。こうしてブランコはいつもの全開モードで漕がれたわけですが、私もまた、みんなへの感謝を表すことで、「思いやりに応える思いやり」を行動で示したのでした。
助ける側だけでなく、助けられる側も、思いやりを示すことはできます。そしてそれは、最高のお礼になるようです。そうなるのは、思いやりが真心の交換だからではないかと私は思っています。