聖書は私たちに教えています。キリストと呼ばれるイエスが弟子たちに、次のように約束されました、と。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)
この言葉は、マタイ福音書の大きなテーマとも言われていますが、このイエスの言葉の中から、「いつも」という言葉に注目してみたいと思います。
目覚まし時計が鳴って、寝床から起き上がる時に、イエスは共におられます。身支度をしている時も、慌ただしく朝食を取っている時も、イエスは共におられます。公共交通機関を使って、または自転車や徒歩で通勤・通学している時も、イエスは共におられます。
仕事や勉強の最中も、また、のんびりと一日を過ごしている時もイエスは共におられます。家族や友人、同僚たちと楽しく会話している時も、ケンカしている時でさえも、イエスは共におられます。一人ぼっちで過ごしていたとしても、目には見えなくとも、イエスは共におられます。
洗濯している時も、掃除をしている時も、買い物をしたり、炊事をしたりしている時も、イエスは共におられます。
食べたり、飲んだりしている時も、ぼーっと考え事をしている時も、ゆっくりお茶を飲んでいる時も、イエスは共におられます。
楽しい時も、嬉しい時も、また、怒っている時も、悲しい時も、そして、苦しい時、ふさぎ込んでしまった時、諦めてしまっている時でさえも、イエスは共におられます。
慌ただしい一日が終わり、寝床に着く時にも、イエスは共におられるのです。それだけでなく、私たちがこの世を去ったとしても、イエスは「世の終わりまで」共にいてくださるのです。
どんな時、どんな場所、どんな状態にあっても、必ずイエスが共におられる。それが「いつも」という約束なのだと私は思います。