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約束

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 大人になるにつれて、約束という言葉を避けるようになった気がしています。子どものころには、来週一緒に遊ぶことも、放課後待ち合わせすることも、ずっと親友でいることまでも「ぜったいね」と約束したものでした。

 しかしいまは、ランチの約束でさえもお互いの都合で延期になることがあるし、大切な決め事でも「お約束はできませんが」と前置きが付いたりもします。

 イエスは、小さなことに忠実な人は大きなことにも忠実と言われます。たしかにその通りだと、自分の経験からしても思います。しかし、どんなに忠実であろうとしても、そうなれないことが人生には起こります。だから多くの人が、約束という言葉を使って断定的に請合うことをだんだん恐れるようになるのかもしれません。

 また、ほぼ確実に守ってもらえると確信している約束でも、自分の予想したタイミングより遅れると心配になります。ときには、やはりあの約束は、相手にとってはさほど重要でなかったのだろうか、と疑心暗鬼になったりもします。

 けれども私の経験では、明らかに何らかの意図がある場合などを除けば、たとえその言葉を使わなくても、約束の多くは結局守られているように思います。

 それは一見、本人の意思に左右されるように見えても、実は約束全体を見渡している存在があるからではないかと思うことがあります。私はそれが神様であり、神様の目ではないかと思っています。

 天知る、地知る、己知るということわざでも、まず知るのは天です。責任を伴う意思表示が約束とすれば、それを守ったところまでが行動の顛末です。そしてそれは、大きな存在によって見守られている。それが約束なのではないかと思うのです。