7年前に『ことばの形見』というタイトルの本を作品社より刊行していただいた。
副題を「父母からもらった50の言葉」とつけた。
私たち5人のきょうだいは、父母からはお金や物など、何も遺してはもらえなかった。
しかし、ことばの形見はかかえきれないくらい沢山遺してもらった。
昨日も五島在住の姉と電話でしゃべったが、いつも、最後には父や母の思い出話になる。
「かあちゃんはいつも『人は宝ぞ。人は大切にせんばよ』っていうてたけど、ほんとだね。年をとるごとに深く感じるとよ。近くに何でもしゃべりあえる友だちがおるけん、わたしは幸福よ。その友だちはわたしの宝よ」と姉はいった。
「うん、淑子姉ちゃんもわたしもそれなりに宝の友だちばもっとっけん幸福よ」と私は同調した。
「とうちゃんは自分がされていやなことは人には絶対にするなよっていってたね。その反対に人にしてもらいたいことは人にもしてあげろよっていってたね」と姉がいったので、「聖書にも書いとるけんね」と、また私は同調した。
父母が私たち五人のきょうだいに遺した数々のことばの形見は「かかさんがいいちょった。とっつあんがいいちょった」と自分の父母からの言い伝えと教えてくれたが、その元をずっとずっとたどると、何とすべて聖書のことばにたどりつくから不思議である。
あの時代の五島のカトリックの家々には、聖書などなかったのに、聖書の中のことばが日常の中に生きた言葉として存在していた。
それこそ、言葉の力が不変であることの証である。