▲をクリックすると音声で聞こえます。

言葉の力

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 ノーベル賞詩人タゴールの生誕150年の記念に、日本の詩人たちがインドを訪れ、インドを代表する詩人たちと交流した時のことである。

 インドは広大な国土に多くの民族とその言語、宗教がひしめく国だ。日本文学の研究者であるデリー大学のウニタ准教授が交流に尽力して下さったが、ご苦労が多かったと思われる。或る晩、車で詩人たちを送迎しながら、過労のあまり泣きだしそうになられた。「こんな長い距離を運転しなければならない・・明日のパーティのビールも揺れてダメになってしまう!」。インドの道は悪路が多い。トランクに積んだビール瓶がぶつかり合って派手な音を立てていた。准教授はビールの買い出しまでしておられたのである。

 彼女を労わりたい一心で、私の口から言葉が出た。

 「私たち一生懸命頑張っていますから、きっと神様がビールを美味しくしてくださいますよ」。まるで幼い子どもに聞かせるような拙い言葉だったが、彼女の顔はパッと輝いた。「ああ同じ・・あなた方もそう言うんですね!」。

 この時、私たちの間を隔てていた何かがすっと消えた。お互いの宗教の違いが重要ではなくなって、ただ心を込めた言葉が、まっすぐに彼女に届いたのが感じられた。そして「あなた方も」と返してくれた彼女の言葉も橋のようにしっかりと私の胸に架けられた。私たちは不思議な温かい気持ちになり、どんな困難があっても乗り越えられる気がしてきた。小さな一人一人を見守り、必要とあらば飲み物も美味しくしてくださる方を、私たちは一緒に思い出したのである。

 翌日のパーティで飲んだビールの味はもう覚えていない。だが、この夜に交わされた言葉と隔てのなくなった心を忘れることはないと思っている。