「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た。」(マルコ10・45)
この言葉は、私が司祭になった時に記念に作ったカードの裏側に印刷された言葉です。司祭としての第一歩を踏み出すにあたって、心に刻みたいと願った言葉でもあります。
イエス様が多くの人々、特に、社会からはじき出された人々と関わり、喜びにも悲しみにも人々に寄り添い、時に教え、神さまのゆるしを告げるなどされたその生きざまに、自分自身も倣いたいと思ったからでした。
司祭生活が25年を過ぎている今、改めて、今までの生活を振り返ってみると、果たして、どこまでイエス様の姿に倣うことができたかな、と自問自答しています。
駆け出しのころは、何もかもが新しく、挑戦の連続だったので、とにかく、もがいていた日々だったように記憶しています。そんな生活の中でも、イエス様の姿を思い浮かべながら、日々歩みたいと願っていました。
司祭としての生活に慣れ始めると、「何かを相手に伝えなければ」という誘惑に身をさらすことになりました。「仕えるため」に必要なことは、何かを話すことではなく、徹底的に相手から聴くことだ、と思ったからです。これは少々、私にはつらいことでした。学んできたことを披露したい、という誘惑を抑えて、相手から聴くことに徹するわけですから。
今でも、聴くことに徹しているか、と言われると、まだまだできていないこともあります。私は「仕えること」とは「徹底的に相手から聴くこと」と理解したのですが、これは一生涯かけて目指す道なのかもしれません。まだまだ道半ばですが、それでも、イエス様が人々に耳を傾け続けてきたように、私もその姿に倣い続けていきたいと思っています。