クリスマスと云うと、私は、「み言葉は人となり、私たちのうちに宿られた」という聖書のヨハネ福音の言葉を思い出します。(ヨハネ1・14)気仙語訳では、「み言葉」を「神の思い」と表現されています。「神の思い」がイエスという見える人間の体をとって、私たちのように生きるために生まれられたのです。私にはこの言葉の方がピンと感じます。
神が人となるというのは、私たちの理解の及ばない出来事ですが、そのような考えられない方法で、神は私たちと共に生き、イエスによって、私たちを神の大きな命に招き入れようと望まれたのです。私たちは、人となられたこのイエスを通して、イエスの言葉、その行動や生き様から父なる神の思いを感じることができるようになりました。
私たちは、とかく「自分自身」が神を捜し求め、神のもとに向かって行くと考えがちですが、実は、神が自らこの世に来て、私たちを捜し求め、見出し、ご自分のもとに連れ戻すために来てくださったのです。
イエスは、無力な赤ちゃんとして生まれ、最期は、十字架の死までの道のりを、弱い一人の人間として歩かれました。土にまみれ、傷だらけの疲れ切ったイエスの足どりは、私たち一人ひとりに自分の人生の旅路を思い起こさせてくださいます。それは、どのような時も、どんな苦しみや失敗、不条理な出来事の中でも、「私は、いつもあなたと共にいる」という神の思いを、私たちが疑いようのないほどに、示すためです。
「インマヌエル」「共にいる神」、イエスは、その名のとおり、私たちのためにこの世に来られました。私たち一人ひとりと「共にありたい、一緒にいたい」という神の深い切なる思いが、御子イエスの誕生・・・クリスマスをもたらしたのです。