いつも生き生きと

熊本 洋

今日の心の糧イメージ

 願わくば、いつも意気揚々、はつらつ明朗でありたいものであります。

 しかし、喜怒哀楽のある人間、いつも、はつらつ明朗でいることは、恐らく不可能と言えそうです。だからこそ、「いつも、喜んでいなさい」という言葉が教訓になっているのだと思います。(1テサロニケ5・16)

 いつも喜んでいるには、まず、悩み事を抱えず、常に楽天的であることが必要ですが、言うは易しく、実行甚だ困難。何らかのことで、常に努力を重ねている私たち、その心底には、なんらかの苦しみや悩みを抱えています。その悩みは、目的達成のためと考えるとき、その悩みは、喜びに変化します。

 ところで「生き生きと」生きるには、まず、心が「純粋潔白」であることが大事だと思います。汚れた意識や思いからは、「生き生きと」した心は生じません。目覚め後の「生き生きと」した新鮮な心は、体験上目覚め後、約20分の沈思黙想によって、尚一層、生き生き、鮮明になります。

 雑念が消え、心が純粋潔白になったところで、明るい希望に満ちた今日一日の計画を描き、確信を持って、その実現に努力することを自ら誓います。

 自ずと朝の祈りであり、申し分のない、その日一日の出発であります。その後は、射祷で、神との絆を保ちます。射祷とは、ごく短い祈り、例えば、「主よ、憐れみ給え」とか「主よ、み旨のままに」とか「わが主、わがすべて」と言った極短い祈りを矢を射るように繰り返し祈る祈りで、ことあるごとに、いつ、どこでも、また、心の中でも、口に出しても、唱えることができ、力強い勇気が与えられます。

 この大きな恵みと共に「いつも生き生きと」生活できることに深く感謝しています。

いつも生き生きと

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 小学生の頃、社会科の授業のときに開いた教科書に「仕事は生きがい」という言葉がありました。子どもの私は、将来の仕事について考えても実感が湧きませんでした。その言葉は30年以上経った今も私の記憶に残っており、時折、〈私は仕事に生きがいを見出しているか?〉と、心のなかで問いかけることがあります。

 さかのぼると、文章を書くこと、自分の想いを言葉で綴ることに、小学生の私は歓びを感じていました。お世話になった先生は私の作文を学級新聞に載せたり、皆の前で読み上げたりしてくれました。とくに印象的な作文は、脳性麻痺による障がいをもつクラスメートの車椅子を押しながら一緒に帰った場面や、放課後の廊下で歩行器を使って歩く練習をする彼のそばで、声援を送りながら見守る場面を記したものです。自分の心に残る出来事を書き記し、誰かに読んでもらうことが好きでした。

 あれから時は流れ、大人になった私は詩や文章など執筆の仕事をしています。青春時代は思い通りにいかず山あり谷ありでしたが、40代になった今、「自分らしさを活かす道」を歩む日々を思うと、〈己の道を信じ続けて良かった...〉という、感謝の念が湧いてきます。

 ところで先日、古い我が家の玄関のドアが閉まらなくなってしまい、あわてて工務店に電話をしました。ほどなく、忙しいなかを職人さんが駆けつけてくださり、見事な手さばきで直してくれました。とても助かり、帰り際に深々と頭を下げてから職人さんの顔を見ると、嬉しそうな瞳で、仕事で人を助けていることの気概を感じる微笑みでした。

 帰ってゆく後ろ姿を見ながら、私は〈あの方も自分の仕事に生きがいを見出しているのだなあ〉と、思ったのでした。


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