いつも生き生きと

古川 利雅 神父

今日の心の糧イメージ

 今から30年ほど前、大学卒業後、社会人として駆け出しの頃、会社の方と夜の食事などご一緒することも時折ありましたが、とある居酒屋に入り、品物を注文しようと店員さんを呼ぶと「はい、よろこんで!」と元気な生き生きとした声が。何度も注文しても相変わらず「はい、よろこんで!」、どの店員さんも「はい、よろこんで!」。仕事で疲れ切った体を、活気のある声で元気づけてくれました。

 気になってネットで調べてみましたら、どんな時も喜んで接客を行う意味を込めて、「はい、よろこんで!」の言葉をお客様に掛けていたという記事が見つかりました。店員さん、最初は恥ずかしかったかも知れませんが、次第に慣れたのでしょうね。

 今、身近で同じ様な方はおられないかなと思い巡らすと、様々な方が思い浮かびました。改札を通る人に挨拶なさる地下鉄の駅員さん。道ですれ違った時に挨拶なさる見知らぬ方。子どもを迎える幼稚園の先生方などなど。特に幼稚園の先生方は元気がなかったりすると、上の方から後で注意されることも。

 幼稚園に登園した園児さんを先生方が、元気な声、元気な姿で迎えるなら、子どもたちも元気になって一日過ごすことができますが、元気でない声、元気でない姿で迎えるならば、子どもたちも元気のないまま、過ごすことになってしまいますからね。

 元気な声、元気な姿、生き生きとした声、生き生きとした姿で日々出会う人と接するなら、私たち自身が変えられるだけでなく、出会った人も次第に変えられてゆき、私たちの身近なところから何かが大きく変わっていく、変えられていくことでしょう。

 今日も新たな一日が始まります。私たちがいつも生き生きと生きることができます様に。

いつも生き生きと

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

 私が目標にしているおばあさんがいる。

 ひとりは、五島の小さな島で暮らしていたおばあさん。その人のことは『ばんばのつぶやき』という本にまとめた。

 ひとり暮らしなのに、いつ訪ねても生き生きとした姿で迎えてくれた。

 流石に年々、姿、形は老いていたが、心は老いず、そのみずみずしい心が小さくなった身体からはみ出るくらいに感じられた。

 生活の中心にイエズス、マリア、ヨゼフ様を置き、何をするにもこの聖家族により頼んでいた。

 一番の楽しみは2ヶ月に1度入る年金でゆかりの人の御ミサを立てていただくことであった。

 また、その島にたまに来て御ミサを立ててくださる神父さまに、おせんべつを差し上げることも楽しみのひとつであった。

 その楽しみを語る時、少女のように生き生きとした表情になった。

 もうひとりは、私たちの教え方であった梅木のおばちゃん。

 おばちゃんを訪ねると、「美沙ちゃん、年ばとったら出来んことが多くなるばってん、まだ残ってることも沢山あるとよ。今日は洗濯ばして、干して、とり入れて、たたんで、掃除もして・・と指ば折って自分が今日したことば数えると、嬉しゅうなってにっこりするとよ」と、生き生きとした顔でしゃべるのだった。

 そして私の母。

 「みんなによくしてもらってありがたかとよ。感謝!感謝、感謝の毎日たいね。よか思い出があればさ、いくつになってもそれば思い出して楽しかとよ」

 このおばあさんたちにならえば、老いても心はいつも生き生きと暮らせるのだ。


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