いつも生き生きと

植村 高雄

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 最近の私の悩みはラジオやテレビから流れてくる暗いニュースです。私の心は乱れ乱れて、いつもの美しく楽しく感じている音楽が突然、騒音に変化したりします。大好きなお寿司が美味しくなくなったり、大好きな森の公園の小鳥の鳴き声や爽やかな風が煩わしくなるのです。味、香り、聴覚が、その時の私の心や健康状態で、大きく変化していくのに気付きます。

 生き生きしていた日々の想い出があればあるほど、今の虚しさが切ないのでしょう。虚しくなるので、私は敢えて青春時代を想い出す努力もやめてしまいます。過去を回想することで元気になる場合もありますが、どの世代でも将来の夢が大事なようです。

 私のここ数年の夢となっている思索テーマは「人間の死は永遠の生命への通過儀礼」という考え方です。この課題が私を、生き生きとさせてくれているのが不思議です。この思索をしていますと元気になってくるのです。永遠に生きる喜びと希望が燃え出すからでしょうか。

 特に最近、大学時代の友人たちとの話題で、一番興味をしめすのが、この「永遠の生命」という話題なのです。意外とスムーズに楽しく会話がすすんで、皆、生き生きと元気になるのです。

 旧約聖書の雅歌の話をしましたら、帰り際に本屋さんで購入した友人には驚きました。人間の愛について後日電話で質問してきたのですが、旧約聖書でのやさしさ、友情、愛情という考え方を始めて知った驚きについて語ってくれました。この年になって初めて知った雅歌という聖書で人間の魅力を見直し、今、生き生きと勉強会に通い出した友人に、何故か感動しています。

いつも生き生きと

シスター 山本 久美子

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 今年、世界と私たちの日常生活は、新型コロナウィルスの感染拡大によって覆されました。教会のミサも、あらゆる活動や外出も自粛要請され、「社会的距離」という言葉が頻繁に使われ、教会の本質である「交わり」がゆるされなくなったとも言えます。そんな中、人間として、キリスト者として、どのように生き生きと生きることができるのでしょうか。

 主イエスが十字架上で亡くなり、愛する師を失った大きな喪失感の中、心を閉ざしてしまった弟子たちを思い起こします。「何故、こんなことが」という大きな疑問が彼らの頭をもたげたに違いありません。今年の復活節ほど、この弟子たちの状況を理解し、彼らの思いに共感できた経験はありませんでした。

 しかし、復活されたイエスは、失意の中で暗く深刻な表情の弟子たちに、「平和」を与え、いのちの息を吹き込まれました。弟子たちは、主の復活と共に、生き生きと新しいいのちを生きる者に変容されました。イエスや弟子たちと同じように、私たちの人生や日常にはいろいろなことが起こり、説明のできないことも多いです。しかし、主は、弟子たちの体験を通して、私たちにも「平和」を約束し、いのちの道を示してくださるのです。

 新型コロナウィルスの出現は、私たちに、時間をとって、自分の人生や生活の中で何が大切なのか、今一度考えるようにという機会を与えたのかもしれません。以前の生活の中では当たり前のようなことが実に有難く、日々、出会う人々や関わり、交わりによってどんなに支えられているかに気付き、今を、神のいのちを生き生きと生きるようにと促される好機として捉え、主と共に歩み続けたいと思うのです。


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