ある人の一言

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 日本には昔から「言霊信仰」と呼ばれている文化があります。或る言葉を口にしたばかりに、色々の現象が起きますので、言葉を口に出すときは注意しなさい、という教訓だと私は解釈しています。

 仲の良い友達が言う嫌な言葉には腹がたちませんが、苦手な友達の場合は逃げ出したくなります。

 楽しく明るい人間関係を築き上げたいと誰もが願っていると思います。しかし、世の中には意地悪をするのが楽しい、と感じている人々も多いので、難しい人間社会です。職場で、家庭で、また友人との関係で、この発する言葉の重要性について、誰しも真面目に考えてはいるのでしょうが、いちいち気にしていましたら、精神を病んでしまいます。

 人は皆、善意、悪意に関わらず、ほんの一言で傷付け合ってしまいます。どう考えたらいいのでしょう?

 私も仕事や勉強の関係で、欧米や南米、中国などで、政治上の暴動、経済からの争い、宗教、家族間の愛憎に触れてきましたが、それは全て言葉が原因でした。ある人の一言が始まりでした。その一言から事が始まるのです。感情的な言葉、愛や配慮の足りない言葉が原因で、即座に誤解が生まれ、言い争いが始まっていました。愛と平和運動に生涯をかけた人々とは思えない恐ろしい姿も垣間見ます。

 キリスト様がこの地球にお生まれになりましたのも、人間のそのあたりの実情をご存じで、道を拓いてくださったのでしょう。

 私も大勢の人々に言葉で悲しい想いをさせてきましたが、これが人類の実情でしょう。

 ある人の一言が、今までもこれからも、多分永遠に人類社会に大きな影響を与えるでしょうから、それぞれに気を付けて、その一言に愛を込めようと努力するのが大切なのではないでしょうか。

ある人の一言

湯川 千恵子

今日の心の糧イメージ

 傘寿の坂を半ば越えて過去を振り返ると、何と想定外の道を歩んできたことかと思う。

 長女をカトリックの幼稚園に入れて3か月後、夫と幼児2人を連れて洗礼を受けたのはその最たることである。

 「お子様をキリストの愛の精神で教育を・・・と当園を選ばれたと思います」。園長の挨拶に、家が近いので入れた私はドキッ!キリストの愛って何?批判がましい好奇心で聖書研究会に入った。

 同じ時期、満州生まれの夫は思春期に敗戦で価値観が逆転し、何も信じられない魂の闇を経験した故か、神父様の話を少し聞いただけで愛と真理の光である神の存在を悟り、一足飛びに洗礼を受けてクリスチャンになりたいと言い出した。

 神父様に「神の招きです。生涯かけて神に近づく道。奥様もご一緒に」といわれた。中世の堕落した教会歴史を学んで偏見があった私は「とんでもない!」。しかし私も両親を早く失い、心に空洞があり、確かな支えを求めていた。だが、洗礼を受ける決心がつかない。

 そんなある日、F夫人が言われた。

 「私も洗礼前は迷ったわ。でも神父様が言われたの。"教会のステンドグラスは外から見ると埃にまみれたガラス窓だけど、中に入ると天からの光を受けてその素晴らしさが分かります。信仰も同じです" 私はこの言葉を信じて洗礼を受けましたが、正解でした」

 F夫人の話は体験を通して得た自信に満ちて説得力があった。

 私は夫と洗礼を受け、心配性から楽天家に変えられた。「全てを益とされる神がいつも共にいて下さる」からだ。辛い時、「助けて!」と祈ると慰められ、嬉しい時、感謝すると喜びが倍増した。チャレンジする勇気も与えられた。だから絶望することがない。いつも喜びと感謝、希望の光を感じて幸せなのだ。あの時のF夫人に倣いたいと思う。


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