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ある人の一言

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 キリスト教講座を私達の教会で開いて下さった一人の信者さんが、「『この人はこういう人なのか』と結婚相手に対して思う時が、結婚生活の出発の時なのだそうですよ」と、講座の中で、笑顔で話して下さったその光景が、今も目に浮かびます。参加者は皆さん、「ああ、なるほどね」と言うような表情でした。

 修道生活において、私も同じような経験をしました。志願者として入会した当初、生活は楽しく、共に暮らしている人達は皆、聖人ではないかと思ったものです。けれども時が経つに連れ、共に生活する兄弟達も、弱さを抱えながら、何とか神様の呼びかけに応えようとして、日々戦っている、同志なのだなと思うようになっていきました。それでも、他者をありのまま受け入れる事は、未熟な私にとって想像以上に苦しく、未だに、神様からの沢山の恵みを祈り求める毎日です。

 預言者たちも、同じような経験をしています。例えばエレミヤ書には、次のように書かれています。「あなたの御言葉が見出された時、私はそれを貪り食べました。あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び踊りました」。(15・16)エレミヤが預言者として召された時の喜びが、ここでは表現されています。けれども、これに続く箇所は、次のようです。

 「私は笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたは私を憤りで満たされました」。(15・17)

 ハネムーンの時が終わり、神の預言者として生きる事の苦しみを体験し始めているエレミヤが、神に本音をぶつけているのです。

 誰でも、このような経験をするかと思います。その時こそが、神様に心を向け、祈り始める時なのかもしれません。