ある人の一言

遠山 満 神父

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 キリスト教講座を私達の教会で開いて下さった一人の信者さんが、「『この人はこういう人なのか』と結婚相手に対して思う時が、結婚生活の出発の時なのだそうですよ」と、講座の中で、笑顔で話して下さったその光景が、今も目に浮かびます。参加者は皆さん、「ああ、なるほどね」と言うような表情でした。

 修道生活において、私も同じような経験をしました。志願者として入会した当初、生活は楽しく、共に暮らしている人達は皆、聖人ではないかと思ったものです。けれども時が経つに連れ、共に生活する兄弟達も、弱さを抱えながら、何とか神様の呼びかけに応えようとして、日々戦っている、同志なのだなと思うようになっていきました。それでも、他者をありのまま受け入れる事は、未熟な私にとって想像以上に苦しく、未だに、神様からの沢山の恵みを祈り求める毎日です。

 預言者たちも、同じような経験をしています。例えばエレミヤ書には、次のように書かれています。「あなたの御言葉が見出された時、私はそれを貪り食べました。あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び踊りました」。(15・16)エレミヤが預言者として召された時の喜びが、ここでは表現されています。けれども、これに続く箇所は、次のようです。

 「私は笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたは私を憤りで満たされました」。(15・17)

 ハネムーンの時が終わり、神の預言者として生きる事の苦しみを体験し始めているエレミヤが、神に本音をぶつけているのです。

 誰でも、このような経験をするかと思います。その時こそが、神様に心を向け、祈り始める時なのかもしれません。

ある人の一言

黒岩 英臣

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 これまでにもお話ししたことがあるように思うので、少し気が引けるのですが、思い切ってまたお話しすることにいたします。

 私たちは、幼年期、少年期と過ごしながら、自分は将来何をやろうかと考えるようになります。しかし、何と言ってもまだ年もいかないことなので、将来とは余りにも漠然としていて、これと思いを定められる人は、そう多くはないのではないかと思います。

 ところが、中には探している対象の方から、多分にボーッとしている本人の方へやって来るとでもいうべきめずらしいケースも、ある事はあると言わなければならないでしょう。そこで、実際に私の身におきたある出来事をお話し致します。

 当時、私は12才、中学に入りたてで、同時に、桐朋学園付属の音楽教室というところに通って、そこのオーケストラでバイオリンを学んでいました。ある日、そのオケの練習の帰り道、新宿から山手線に乗ったところ、そこにあの世界のオザワ、国際的指揮者の小澤征爾さんが乗っているではありませんか。勿論、小澤さんもまだ若く、桐朋の短大生で、我々のオケの指揮者であり、兄貴分だったのです。

 その彼が私に話しかけてくれて、こう言ったのです。「黒岩君よお、おめえ勉強して、指揮科に来ねえか」。この一言こそは、私に決定的な影響を及ぼしたのです。言うほうも言う方ですが、その気になるほうもなる方かも知れません。ですが、私は蛮勇を奮ってその気になり、実際、プロの指揮者になったのでした。

 それから何十年、人生の黄昏時にいる今、神様からの一言があり次第、妻共々、すぐにも応じたいと願っているのです。あのサムエルのように、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております」と答えながら。(サムエル上 3・10)


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