先日、私がスタッフをしている、神父の養成の場・神学校の卒業生から、叙階式の案内状が送られて来ました。叙階式の中で神父は誕生するのです。そしてその案内状の隅っこに、一言自筆でこう書き加えられていました。「スタッフの皆様に恵まれ、私たちは安心して生活することが出来ました。さりげない暖かさと優しさがうれしかったです」と。
その文章を見て、そんな風に意識してなかったのになあという思いがこみ上げてきました。1年前に、スタッフとして神学校に赴任し、9年前にスタッフだったことも何の役にも立たず、目の前のこと一つ一つに体当たりで臨み、とにかく笑いの雰囲気だけは保つように注意するといった無我夢中の一年、というのが正直な気持ちだったからです。
でもよく考えてみると、その一生懸命さが、学生からしっかりと見つめられていたのだなあという思いが沸き起こってきました。
そして、この言葉をしっかりと心にとめ、褒められたと思って素直にまた学生たちと向き合ってもいい、そんな元気さを伴う確信も生まれ始めたのです。
私の友人の神父は、話し合いの中で、「人物批評をするとき、良いところを誉めずに、彼にはこれが足りない、この部分が良くないと言うと、賢明な人だと見られる傾向が社会にはあります」と発言し、続けて「でも、良い点を指摘することで人は元気をもらうのですよね。これが人を活かす言葉ですよね」と指摘したことがあります。
「誉め言葉をすぐに否定はしないで、その言葉の奥にある思いを活かせるように、そして同じような人を活かす誉め言葉を発する人になりたい。」そんな決心を私にさせてくれた、友人の一言でした。