私たちは、神さまに何を望まれているか、何が自分の使命なのかを知ることがとても大切です。それは自己理解と、計算のない心で祈ることで徐々にはっきりしていくのだと思います。時には誰かの一言が目を開かせてくれることもあるでしょう。
有名な精神科医であった神谷美恵子さんは、ハンセン病者が隔離されていた島を定期的に訪れて治療を行ない、患者さんの精神的な支えになられました。先生は喜んでそうされていたようです。息子さんが進路を決める年齢になると、こうアドバイスなさいました。「あなたが好きだと思える道を選びなさい。嫌いなものを選んではいけません」。
心の中に神さまがおいてくださった賜に従って歩みなさい、それは、あなたが心惹かれるもの、好きなことのはずです、という意味です。
賜はしばしば性質に表れています。静かに一つのテーマで研究することに心惹かれるなら研究を仕事にするのがいいでしょう。自分の賜とはまるで違うものを仕事にしてはいけない、幸せになれないから、ということです。
私も友人の一言で大切なことに気づいたことがあります。彼女は「本業に専念してください。あなたの本業は書くことです」と言ってくれたのです。ハッとしました。私は書くことが好きですが、本業というほどの決意も自信もなかったのです。この一言で、私は、力の置き所をよく考えよう、神さまが与えてくださった賜に集中して心と時間を使わなくてはいけない、と思いました。そしてあまり向いていない細々としたお手伝いをやめて、まとまった時間を失わないようにしました。
神さまは、必要な時にふさわしい人をいつも送ってくださいます。
あの時の、あの方のアドヴァイス、その一言になぜ従わなかったのだろうと、ホゾを噛む思い、そんな思いを抱えているのは私だけではないでしょう。
「あなたなら、絶対いけるよ」とまでおっしゃってくださったのに。
一生の不覚、なのでした。そのK先生も、今は天国におられます。
それは例えば、音楽でいえば私はクラシック一点張り、他のジャンルには見向きもしないといった強情っぱり、の姿勢なのでした。「そんなこだわりを捨てていろいろ挑戦してみたら。あなたは何でもこなせる人だ」とまでおっしゃってくださったのに、言うことをききませんでした。若気の至り。自分の思い上がりが恥ずかしくてなりません。
文学でいえば、純文学とエンターティメントというところでしょうか。そんな線引きをして、自分では「正統派」と思い込んでいたのですね。
小さい頃から「素直な良い子」、自分でもそう思いこんでいたのに意外に頑固、強情っぱりだったのだと今さらのように思います。
ずいぶん後になって、何かの折にK先生に「どうしてあのとき、先生の言うことがきけなかったのかと口惜しくてなりません」と告白したことがあります。「そうだろう。ぼくは間違ったことは言ってないと思うよ」とのことでした。その上、「あなたは右か左かと迷う時に、損な方を選ぶ傾向がある」と予言めいたことをおっしゃったのを憶えています。まさしくその通り。
一方、ある修道会の神父さまのお話に、「人間、失敗することはよいことです。神様、助けてください。お手上げです、と神様に全面降伏しますからね。成功した時がアブナイ・・・。だから心配しないで。」とありました。
安心してください!がその神父様の口ぐせでした。