傘寿の坂を半ば越えて過去を振り返ると、何と想定外の道を歩んできたことかと思う。
長女をカトリックの幼稚園に入れて3か月後、夫と幼児2人を連れて洗礼を受けたのはその最たることである。
「お子様をキリストの愛の精神で教育を・・・と当園を選ばれたと思います」。園長の挨拶に、家が近いので入れた私はドキッ!キリストの愛って何?批判がましい好奇心で聖書研究会に入った。
同じ時期、満州生まれの夫は思春期に敗戦で価値観が逆転し、何も信じられない魂の闇を経験した故か、神父様の話を少し聞いただけで愛と真理の光である神の存在を悟り、一足飛びに洗礼を受けてクリスチャンになりたいと言い出した。
神父様に「神の招きです。生涯かけて神に近づく道。奥様もご一緒に」といわれた。中世の堕落した教会歴史を学んで偏見があった私は「とんでもない!」。しかし私も両親を早く失い、心に空洞があり、確かな支えを求めていた。だが、洗礼を受ける決心がつかない。
そんなある日、F夫人が言われた。
「私も洗礼前は迷ったわ。でも神父様が言われたの。"教会のステンドグラスは外から見ると埃にまみれたガラス窓だけど、中に入ると天からの光を受けてその素晴らしさが分かります。信仰も同じです" 私はこの言葉を信じて洗礼を受けましたが、正解でした」
F夫人の話は体験を通して得た自信に満ちて説得力があった。
私は夫と洗礼を受け、心配性から楽天家に変えられた。「全てを益とされる神がいつも共にいて下さる」からだ。辛い時、「助けて!」と祈ると慰められ、嬉しい時、感謝すると喜びが倍増した。チャレンジする勇気も与えられた。だから絶望することがない。いつも喜びと感謝、希望の光を感じて幸せなのだ。あの時のF夫人に倣いたいと思う。