私にとって、小学校時代の野球部での経験は、今なお大事な思い出になっています。休日や放課後の練習以外にも、希望者は監督の家に集まっては練習をして、私もずいぶんバットを振りました。その名残が現在も手の平にマメとして残っています。私は控え選手ではありましたが、このマメは私の誇りです。
高校時代に甲子園大会に出場したことのある監督は、子供達にまじって練習試合に出ては打席に立つと、小学校の屋上を越えてゆくほどのホームランを打ったりしたものでした。5年生の時、地元の大会でチームが優勝して、喫茶店で行われた祝勝会では、監督が子供達一人ひとりに愛情のこもった手紙を読み上げてくれた場面が、心に残っています。そんな人間味のある監督を私も信頼し、試合中、ベンチから仲間と共に声を張り上げてチームの雰囲気づくりに努めていました。
小学校を卒業して5年ほど経った頃、監督が体調を崩したらしいと、風のたよりで聞いていた私は、偶然、電車で監督と奥様に出会いました。私を見るなり、「大人になったねぇ...」と感慨深げに目を細める監督の顔色は、確かに優れないものでした。監督が亡くなられたのはその数年後で、まだ50代の若さでした。
それから10数年、今思えば、当時の練習が辛い時もありましたが、子供の私たちが監督を慕い、それぞれが自分らしく活躍できた楽しいチームでした。
ギラギラとした日射しの中、日焼けした甲子園球児が汗を光らせ躍動する真夏は、そんな監督とチームの思い出が記憶に甦ります。
監督は私を「ハッちゃん」と呼んでいました。目を閉じると、不器用な控え選手だった私の傍らで共にジョギングしてくれた監督の声が、今も聴こえる気がします。
〈ほら、ハッちゃん、ガンバレ!〉