親と子ども

片柳 弘史 神父

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 「うちの子どもは、どうも出来が悪くて」という言葉を、ときどき聞くことがある。「出来が悪い」というのは、主に「学校の成績があまりよくない」という意味のようだ。謙遜を込めているのかもしれないが、そのような決めつけはどうかと思う。

 実際その子は、あまり勉強せず、乱暴な口をきいて親に反発しているのかもしれない。だが、学校の成績がよくないというだけで子どもを「出来が悪い」と決めつける親に、反発したくなる子どもの気持ちもわかる。学校の成績が悪くても、スポーツや芸術などで才能を持っているかもしれないし、リーダーシップや思いやりといった部分で秀でている可能性だってある。人間を測る尺度は、学校の成績だけではない。それを、成績が悪いというだけで、「出来が悪い」と決めつけるのは乱暴だ。

 もしかしたら、その子が勉強しなかったのは他に何かやりたいことがあったからで、一度勉強に興味が向かえば成績を伸ばせる子だったのかもしれない。だがそんな子どもでも、親から「出来が悪い」と決めつけられれば、「どうせわたしは出来が悪いんだ」と思って勉強する気力を失ってしまうだろう。「この子は出来ない」という親の決めつけが、子どもに与える悪影響は計り知れない。

 生まれながらに「出来が悪い」子どもなど一人もいない。どんな子どもでも、その子にしかないよさを持って生まれて来るというのがキリスト教の基本的な信念だし、わたしもそう固く信じている。どんな子どもにも、「この子こそ神さまの最高傑作。世界一の子ども」という気持ちで接するようにしたい。そうすれば、その子はきっと、その子にしか咲かせられない、世界でたった一つの美しい花を咲かせることだろう。

親と子ども

植村 高雄

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 父や母を見送ったのはいつの頃だろう?

 電車の中や近所の森や林を散歩していると若い母子連れを見かけます。こどもを怒鳴り散らしているお母さん、楽しそうに会話しているお母さんもいます。

 ふと自分の母を思い出します。私が高校2年の時に40代で天国に旅立ちました。お寺で生まれた母からは人を愛する大切さを教えられ、海軍の職業軍人であった父からは責任感を叩き込まれます。しかし、この両親の教えは私が社会に入り難しい仕事をする上で邪魔になりました。

 

 激しい仕事上の戦い、勝ちぬく為の競争社会では、この両親が教えてくれた「愛」と「責任感」が邪魔でした。職業上の戦いの時に、私はなぜ、愛とか責任感を病的にまで気にするのだろうと悩みます。

 今でも夢でうなされる場面があります。それは1970年代、アルゼンチンに仕事で行きました時、たまたま政治上の暴動に巻き込まれ、軍の機関銃で大勢の人々が逃げまどい殺されました。倒れている沢山の犠牲者を乗り超えて私は逃げまどいます。そのときの私に人間としての責任感、なぜあの人々を救出しなかったのか、今でも夢でうなされるのです。

 このような色々な思い出が日々私を悩ませますが、ふと心を神様に向けると、何故か、心が明るくなるのが不思議です。好きな音楽を聴き、美味しい料理を頂き、近所の植物園を散歩して薔薇の香りを楽しみ、心を神様に向けて自問自答をしていますと、生きる楽しみと喜びが心に湧き出してくるのを感じます。

 洗礼を受け、真善美である神様を五感で感じ取ろうと努力している自分に、子供の頃から「愛と責任感」を大切にしない人生は駄目だよと、説教していた親を改めて思い出し、心から親に感謝したいと思いました。


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