「神さまの愛は親の心に一番近い」という言葉をよく神父さまから聞きました。もちろん人間は小さな存在ですから、神さまのように、我が子と同じくらい隣の家のお嬢さんを愛するようなことは出来ないのですが、それでも、何の見返りも期待せずに、ほぼ無条件に子どもを愛する親は崇高だと思います。
反対に、私たちの社会は、仕事や勉強が出来なくてはならない、きれいでなくてはならない、良い評判を得なくてはならないと様々な条件をつけます。その要求に応えようとすると疲れ果ててしまいます。頑張って応えることが出来た人は、そうではない人を見下したり、怒りを感じたり、不健康な考えに陥ったりしやすいでしょう。
たとえば、2016年に神奈川県の障がい者施設で45人の方々を殺傷した犯人は、障がいのある人に価値を認めないという考えでした。
これは私たちの社会の闇が生んだ考え方です。
事件で子どもを失った親御さんのお気持ちが最近の新聞に掲載されていました。そこには「ニッコリ笑う姿が目に浮かぶ」、「どんな時もかわいかった」、「生きる希望だった」、「愛おしい子ども」と愛情だけが表れていました。親にとって子どもは、障がいがあっても、なくてもただひたすら愛おしいのです。
私たちはその愛をふだん何気ないときに感じています。いるだけで可愛い犬や猫と遊ぶとき、青空を見上げ、ぽっかり浮かぶ綿菓子のような白い雲を見るとき、巨大なバラのような夕日の美しさに見とれるとき、友人の親切な言葉を聞くときなどです。
そんなとき優しく穏やかな気持ちになれるのは、私たちが生きて存在すること自体を喜んでくださる神さまの愛を感じるからではないでしょうか。
幼い子と一緒に遊んであげて仲良くなると、大事にしている宝物を見せてくれることがある。とても嬉しいものである。
ユウ君は、時々我が家に遊びに来てくれる3歳の男の子だ。ある日、食事を終えた大人たちがなごやかに座っていた時、ユウ君がそばに来て、私をじっと見ていたことがあった。何だろうと思っていると、並んでいる御両親の間に立ち、2人に寄りかかるようにして「ユウ君の・・ユウ君のパパとママ!」と誇らしそうに囁いた。ああ、一番大事な宝物を教えてくれたのだ、と分かって私は胸が一杯になった。幸福がそこに姿を現したのが見えるようだった。御両親は照れながら恐縮しておられ、そしてとても嬉しそうだった。ユウ君は小さな掌を御両親の肩において、顔を輝かせていた。
人は人から生まれて来る。自分を産んでくれた人や育ててくれた人を親と呼び、地球上には、無数の親子関係が出来る。親子の間に愛情があればまた確執も生まれ、お互いに苦しみ悩むのは珍しいことではない。
創世記では、父なる神が弟アベルの献げ物だけを受け取り、兄カインを拒む。カインは理由が分からず、理不尽な父だと怒り、苦しんだに違いない。
だが、かつて私たちは皆幼くて、ユウ君と同じ輝く喜びの中に、たとえ一瞬でも、いたのである。悩み苦しむ時、試練にあった時、その喜びの記憶は、私たちを支えてくれるようだ。
ユウ君のように、世界中の子どもたちが幸福に会えるよう祈りたい。今満たされている子も満たされていない子も、どうかいつも喜びに輝く顔でいられますように。